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新説(珍説?):小倉百人一首は和歌のLCAだった!?【第5回】

| 投稿者: 機械工学科

 みなさん、こんにちは。サステイナブルマネジメント研究室芝池です。
 シリーズ前回は「百人秀歌は和歌の博物館だった!?」という新たな仮説で盛り上がったのですが、百人秀歌の配列(和歌の順番)が4首一組のユニット順になっているだとか、小倉百人一首は表現等のバランス重視で撰歌したとか、いろいろ言いっぱなしなのも多少気が引けますので、Appendix(付録)-1にさわりを簡単に紹介しました。
ご用とお急ぎのない方は、(だまされたと思って)ご一読いただければ幸いです。

さて、現在私たちが目にする小倉百人一首は、定家卿の死後、嫡男藤原為家により成書化されたという説が有力で、したがって素直に定家作とは言い切れないようです。
とはいえ、やはりこの歌集は歌聖藤原定家の手になる壮麗な和歌史的秀歌撰ですよね。
100首はすべて勅撰和歌集に採録された歌ですし、600年間の各時代を代表する詠み人たちがオールスターキャストよろしく100人ずら~っと並べられてもいますから。
ところが、この人撰(撰歌)にイマイチ納得できなくて、単なる秀歌撰には留まらない全く別の意図が隠されているのではないか、と指摘する人も多いのです。
そこで今度は、小倉百人一首の各ブロックで、六歌仙(紀貫之撰)や三十六歌仙(藤原公任撰)および後鳥羽院が流刑先の隠岐島で編纂した『時代不同歌合』に採録された百歌人と重ならない歌人を以下にリストアップしてみました。(歌人の前の数字は歌の番号)

A: 1天智天皇、2持統天皇
B: 7安倍仲麿、13陽成院、14河原左大臣(源融)、15光孝天皇
C: 24菅家(右大臣菅原道真)、25三条右大臣(藤原定方)、26貞信公(関白藤原忠平)、32春道列樹
D: 37文屋朝康、50藤原義孝
E: 54儀同三司母(藤原貴子)、55大納言公任、58大弐三位、61伊勢大輔、62清少納言、63左京大夫道雅、64権中納言定頼、67周防内侍、68三条院
F: 78源兼昌、82道因法師
G: 88皇嘉門院別当、93鎌倉右大臣(源実朝)、96入道前太政大臣(西園寺公経)、100順徳院

上のリストには天皇や政治家など錚々たるメンバー27人が名を連ねていますが、一方で、万葉歌人では額田王や山上憶良が撰ばれておらず、六歌仙からはなぜか大伴黒主だけがはずされています。
また、三十六歌仙からは11人の歌人が落撰していますし、後鳥羽院が撰んだ100人と比べても実に34人が異なっているのです。
中には藤原公任のように高名な歌人も含まれているとはいえ、全体の1/4強の人が小倉百人一首に特有の「秀歌の詠み人」として撰ばれているのは何とも不思議です。
単なる和歌史だったとするとなぜ、世間が認める著名な歌人をはずしてまで、歌道より政治に色濃く関わった人々の歌がこれほど多く採録されているのでしょうか?
もちろん定家卿の好みなのかも知れませんし、現にそう断じる研究者もおられるようなのですが・・・、でもやはり何か秘密が隠されているような気がしてならないですよね。

そうなんです。実は、この不可解な人撰にこそ「LCA仮説」の成否を決定づける重要なカギがひそんでいるに違いない、と私はにらんでいます(おおっ!)。
LCAは、何度も繰り返して恐縮ですが、工業製品などのライフサイクルの各段階における環境負荷を定量化し、その環境への影響を科学的に評価する手法です。
「LCA仮説」には、小倉百人一首が取り扱っている対象をLCA的に追究していけば、不可解な人撰の謎が解けるだけでなく、定家卿がこの歌集で何を後世に伝えたかったのかが明らかになるかも知れない、という期待も込められているのです。
というところで今回は終了です。では、いよいよ次回、シリーズ最終回で「LCA仮説」に決着をつけたいと思います。乞うご期待!

---- 以下Appendix(付録)-1 ----

小倉百人一首には同じ言葉が多く用いられており、その結果、かるた取りの時によくお手つきをしてしまう、という指摘がある。たとえば、「ひと」ではじまる取り札は「ひとこそしらね」「ひとにしられで」「ひとしれずこそ」等々、全部で9枚もある。他にも「わがころもでは」と「わがころもでに」、「みをつくしても」と「みをつくしてや」といった非常によく似た取り札があり、覚えるのに苦労された方は少なくないと思う。
しかしながら、これはあくまでも取り札(下の句)の話であって、和歌でいえば第四句である。小倉百人一首がかるたになったのは室町末期と言われているので、少なくとも藤原定家が生きた時代(鎌倉初期)には第四句に対する特別な意識はなかったであろう。
他方、百人一首かるたには「きまり字」というのがあり、読み札のどこまで聞けば取り札が特定できるかを示している。ご存知「む」「す」「め」「ふ」「さ」「ほ」「せ」は最初の1字で特定される(1字きまり)が、「あ」で始まる歌は17首(あふことの、も含む)もあり、1番の天智天皇の歌は「あきの」まで3字を聞かないと決まらない(3字きまり)。最も長い場合、11番の参議(小野)篁「わたのはらやそしまかけて」と76番の法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)「わたのはらこぎいでてみれば」は6字まで、つまり第二句の最初の文字まで聞かないと判別できない(6字きまり、他にも2組ある)。
とすれば、やはり同じ言葉が多い?と思われがちだが、実はこれらは音が同じなだけで言葉としては異なる場合が大勢である。そういう観点で数え直してみると、「春」「花」「山」「朝」「夜」「心」「君」「嘆く」といった同じ言葉で始まる歌は意外に少なく、また、歌枕(地名)も含めて同じ漢字で始まる歌も少ない。百人秀歌だと3首が同じ言葉や漢字で始まる場合が「春」「山」「夜」の3種類あるが、小倉百人一首はすべて2首以下となっている(つまり、該当する歌が二つの歌集間で入れ替わっている!)。下の句では9首もあった「人」で始まる歌にしても、意外や意外、35番の紀貫之「人はいさ」と99番の後鳥羽院「人もをし」の2首だけだし、「秋」「風」「逢う」といった如何にもたくさんありそうな言葉で始まる歌も、改めて数えてみるとすべて2首以下なのだ。
この驚くべき事実に対して私は、小倉百人一首においては同じ言葉や漢字で始まる歌を(定家卿が)歌集全体のまとまりやバランスを重視して2首以下に抑えたのだろう、と推測している。さらには、歌枕や修辞についても同じようなバランス感覚で調整し撰歌されているように感じられ、小倉百人一首と百人秀歌における歌や歌人の不可思議な差し替えの真相はここにあるのではないか、と(心ひそかに)考えている今日この頃である。

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