新説(珍説?):小倉百人一首は和歌のLCAだった!?【最終回スペシャル】
| 固定リンク 投稿者: 機械工学科
こんにちは、サステイナブルマネジメント研究室の芝池です。
いよいよシリーズ最終回ですので、紙面を(勝手に?)拡大して謎解きに取り組みます。
さて、これまでの分析で私たちは、小倉百人一首のたった100首の中に、あまり評価されていない歌人やその人の代表作ではない歌が多く含まれていることを知りました。
前回分析した歌人リストには、紀貫之の六歌仙、藤原公任の三十六歌仙、そして後鳥羽院の百歌人のいずれとも重ならない人たちが27人も並んでいましたね。
そこで今回は、この謎の解明に向けて、まずは歌の内容で定家卿が撰んだと思しき歌人(要するに定家が発掘したといわれている歌人)をリストから除きます。
次に、歌人としても有名なので最初はリストから漏れていたけれど、上でリストに残った人々と関連が深そうな歌人を少しだけ復帰(赤字で表記)させてみます。
すると、以下の新しいリストが出来上がりました。
A: 1天智天皇、2持統天皇
B: 13陽成院、14河原左大臣(源融)、15光孝天皇、20元良親王
C: 24菅家(右大臣菅原道真)、26貞信公(関白藤原忠平)
D: 43権中納言敦忠、45謙徳公(摂政太政大臣藤原伊尹)、50藤原義孝
E: 54儀同三司母(藤原貴子)、55大納言公任、63左京大夫道雅、68三条院
F: 76法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)、77崇徳院、82道因法師、86西行法師
G: 93鎌倉右大臣(源実朝)、96入道前太政大臣(西園寺公経)、99後鳥羽院、100順徳院
これら23人の名前をよく見ると・・・、なんと、この歌人たちはこの国の歴史を「藤原氏」とともに、あるいはライバルとして形作って来た人々ではありませんか!
でも、不思議なことに定家卿は、各ブロック(時代)を象徴する「藤原氏」の代表的存在(氏長者等)であった重要な人物を小倉百人一首にはほとんど撰んでいません。
単に、その人たちの歌は撰ぶまでもないとの評価に過ぎなかったのでしょうか。
いやいや、天下に名立たる歌聖、権中納言定家卿のことです。
あくまでも王朝文化の精髄たる和歌史的秀歌撰という体裁を保ちながら、その一方で「藤原氏」を中心に展開されてきた貴族政治の顛末(ライフサイクル)については、まさに「有心体」の如き本質の深き理解のもと、主人公ではなく周囲の人々の歌を通して間接的(これこそ幽玄!)に表現しようとしたのではないか、と私は考えています。
突然ですが、ここでクイズです。
Q:各ブロックにおいて隠されている主人公とはいったい誰でしょう?
日本史が得意な方なら答えは簡単におわかりでしょうね。
Appendix -2に、主人公である隠れキャラたちを【 】で示しつつ各ブロック(時代)の概要をまとめておきましたので、上でリストアップされた人々の歌を、こうした時代背景をふまえながら今一度味わってみてください。
なぜ定家卿が小倉百人一首にこの人のこの歌を撰んだのか、その意図が何となく感じ取れるようになってきます(と思います)。
では、最後にもう一つだけグラフを見ていただきましょう。
上のグラフは、各ブロックの和歌の数と、女流歌人および僧侶の数を示しています。
一見して、Eブロックにおける女流歌人の割合が極端に多く(50%超!)、また前半より後半に僧侶の歌が多くなっているのがわかりますよね。
LCAは環境への負の影響を算出して評価する手法ですので、通常は数値が大きいほど好ましくない傾向を示すのですが、ここではその時代への正の影響として歌人の多様性について考察しており、E、Gブロックにおける文化面での多大な貢献が推量されます。
そして、紫式部、清少納言、和泉式部、右大将道綱母などEブロックの女流歌人たちの多くが後世に残る傑出した文学作品を生み出している事実にも思い当るでしょう。
政治や文化の独占に関する是非はともかく、「藤原氏」が繁栄の頂点にあった時、結果として国政が最も安定し最大の文化的好影響を及ぼした点に注目されます。
正統的な和歌の歴史を表現するだけでなく、定家卿はこうした「藤原氏」の功績を我々に伝えたかったのではないか、貴族社会の終焉にあって自分たちが創造した大いなる価値を余情豊かに記録しておこうと意図したのではないか、と思えてなりません。
いずれにしても、A〜Gの7ブロックに分けて評価したことにより、時代の変遷と文化の興隆に対する興味深い側面が鮮明に浮かび上がってきたように感じませんか?
実はこれがLCAの大きな特長であり、サステイナブル工学に不可欠な要素なのです。
ライフサイクルの各段階(資源の採掘から廃棄まで)において、評価対象である工業製品が環境に及ぼす影響を個別に定量化していけば、どの段階のどのような環境負荷が支配的であるのかが明確になり、製品の環境性能を効率的に改善するのに役立ちます。
そして、評価対象による正の影響(価値)についても同時に明らかにしてサステイナビリティ(持続可能性)の向上に導くよう、さらなる発展に期待がされているのです。
さあみなさん、LCAを活用して身の回りの製品や技術を環境と調和させるとともにその価値を拡大し、サステイナブル社会の実現に貢献しようではありませんか!
これで今回の小倉百人一首シリーズは終了です。
「LCA仮説」は多少怪しかったかも知れませんが、サステイナブル工学の必須アイテムであるLCAに対し、少しでも興味を持っていただけたなら望外の喜びです。
次はまた別の趣向にてお会いしたいと考えていますが、何はともあれ、最後まで辛抱強くお付き合い下さった皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
Aブロック(資源の採掘):歴史の舞台に登場
中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化改新を成し遂げた【中臣鎌足】は、その死の直前に天智天皇より藤原姓を賜ります。そして、【鎌足】の息子で初めて公式に藤原姓を名乗った右大臣【藤原不比等】は、持統天皇らの律令国家建設と国政の安定化に多大な貢献をしました。ここに、藤原氏が歴史の舞台に華々しく登場したのです。Bブロック(材料の製造):主役の座への台頭
【藤原基経】は上席にあった賜姓皇族の左大臣源融を押しのけて太政大臣になります。さらに、素行に問題のあった陽成院から光孝天皇への譲位を敢行し、後に初の関白となるのです。この結果、陽成院の第一皇子元良親王の天皇即位はかないませんでした。こうして藤原氏は時代の主役に駆け上がりました。Cブロック(製品の生産):隆盛の基盤を確立
藤原氏最強のライバル右大臣菅原道真を退けたのは、【基経】の息子である左大臣【藤原時平】でした。ある意味、彼は藤原氏隆盛の基盤を確立した最大の功労者かも知れません。時代の枢軸はやがて【時平】の弟の関白藤原忠平に移り、以後、藤原北家が権門となって天皇を補佐する形で我が国の政を掌握し続けるのです。Dブロック(輸送):摂関政治体制を堅持
その後も菅原道真の怨念は【時平】の息子敦忠を滅ぼすなど猛威を振るいました。しかし、藤原氏は堅実に関白【藤原兼家】へと摂関政治を継承していきます。一方、【兼家】の兄の摂政太政大臣藤原伊尹の子義孝は若くして亡くなります。北家内部での排斥が起こるようになり、次第に権力の一極集中が進んでいきます。Eブロック(使用):国政の頂点に君臨
【兼家】から息子の御堂関白【藤原道長】に権勢が移行するなか、藤原氏の栄華は絶頂期を迎え、政と芸能の中枢に君臨します。しかしその陰で、公任は歌人として生きざるを得ず、【道長】の甥の儀同三司伊周やその子道雅らも相次いで失脚していきます。また、三条院は心ならずも退位に追い込まれるなど、数多くの悲劇が生まれました。Fブロック(リサイクル処理):内紛から凋落へ
関白【藤原忠実】は嫡男の関白忠通を嫌い、弟の【藤原頼長】に氏長者を継がせます。また、道因が仕えた崇徳院らによる朝廷内の権力争いも激しさを増し、保元の乱が勃発します。乱の後、勝者忠通が氏長者に返り咲くも摂関家の凋落は止められません。西行が捨てた武士の台頭は目覚しく、藤原氏が築いた貴族政治の基盤が崩れていきます。Gブロック(廃棄):表舞台から退場
源実朝が暗殺され、鎌倉幕府は京より【九条頼経】を迎えました。承久の乱の後、後鳥羽院、順徳院は流刑となり、【頼経】が第四代将軍に担ぎ上げられ、時代の趨勢は完全に武家に移ります。公卿は公家と呼ばれ、北条氏の執権政治に主役の座を明け渡し、定家の義弟で【頼経】の祖父西園寺公経ら京の藤原氏は政の表舞台から静かに退場します。
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